お仕事の合間には、気分をすっきりとさせてくれるレモングラスティー。カップ&ソーサーはヘレンドのロスチャイルドバードのデミタッセ(小さなカップ)です。
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イギリスで来年、発行される予定の新1ポンド硬貨に、15歳の少年が考えたデザインが採用されることが明らかになりました!
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英国では先月に封切られた映画「ダイアナ」を見てまいりました。
日本での封切りは10月18日となるようですので
ここで内容を暴露するつもりはありませんので、ご心配なく (*^_^*)
ダイアナ妃を演じたのは、英国出身のナオミ・ワッツさん。
彼女はダイアナ妃を演じるために、彼女のビデオを
繰り返してみて、しゃべり方やしぐさを研究したそうです。
そのかいあって、ちょっとした表情や
目の動きなどかなり似ているように見えましたよ。
この映画はダイアナ妃が亡くなる直前の2年間のみになっておりますので、
彼女の伝記的なものを期待していかれると、期待外れにおわります~

ただ、2時間程度の映画にまとめるには、その2年間の
ストーリーでちょうどよくまとまっていたように感じました。
今までは、彼女が亡くなるときに車に同乗していた
ドディ・アルファイド氏が彼女の最後の恋人だとされていましたが、
この映画でこれまで公に知られることの
なかった彼女の本当の恋人の存在が明らかになります

おっと

これ以上話しますと、ネタバレになってしまいますので、
これ以降は実際に映画をご覧になってくださいね。
純真無垢で何も知らなかった貴族のお嬢様が、
目の前に現れた王子様と幸せな結婚をしました~。
めでたしめでたし‥‥となるはずが、
2人の間には、埋めようのない隙間ができてしまいます。
それは皆さまもご存じのとおりですが、この映画では
その彼女の悲しみがよく表現されていました。
「50億人が私のことを愛しくれると言ってくれるけど、
誰一人私のそばにいてくれない!」
というセリフは彼女の孤独を表していましたね~。

その他、リッツホテルのスイートルームも素敵でしたし、
ロンドンや英国のカントリーサイドの景色も見られますので、
英国ファンにはうれしいのではないでしょうか

というわけで、この映画は英国ファン必見!
の映画だということができると思います

映画をご覧になる前に下のダイアナ妃のインタビュー(日本語字幕有)を
ご覧になって「予習」されておくと、より映画を楽しむことができますので
ぜひぜひご覧になっておいてくださいね。
ほぼ毎日

まったくできていなかったのですが、これからまた頑張ってまいりますね。


以下は英国の魅力的な人々に関する記事です。併せてお読みくださいね

英国発・おちゃめなセレブリティ
スージー・クーパー・ストーリー(1)
ウィリアム・モリスという人(1)

よろしければ、下のバナーをクリックしていってくださればうれしいです





イギリス 英国 アンティーク
昨日からスージー・クーパーという、英国の20世紀を代表するの陶器デザイナーの人生についてお話しております。
スージーの作品は、パリの芸術博覧会で銀メダルを受賞、自分のアトリエも持ち、スージーの人生は一見軌道に乗っているように見えていた、というところまでが昨日のストーリーでした。
一見すべては順調に進んでいるかのように見えたのですが、その後彼女にとってもグレイ社にとっても大きな問題が出てくることになるのです。
ラスターウェアの特徴である、光り輝く薄い層のラスターは、少し使用すると簡単に剥がれてしまうという欠点が露見してしまったのです。そのようなわけで、ラスターウェアは作られた数が大変少なく、この時代のラスターはとても貴重な作品になります。
そのとき、スージーはグレイ社の主流商品をラスターウェアからエナメルの手描きの商品に置き換えることをグレイ社長に提言しました。これは彼女自身が昔、兄のビジネスを手伝ったときに学んだ「顧客の要望に応える」というビジネス哲学があったからこそだと思われます。
その後も、スージーの社内での活躍は目覚しく、グレイ社では製品に「Designed by Susie Cooper」というバック・スタンプを入れることになりました。
そんな成功にもかかわらず、スージーは常に陶器そのもののデザインがグレイ社ではできないということに不満がありました。また、グレイ社のセールスが彼女のデザインに口を挟むようになってきたこともあって、とうとう彼女はグレイ社を去ることにし、独立をすることにしたのです。それは1929年10月29日、スージーの27歳の誕生日のことでした。
その時代の英国では20代の女性が独立して事業を興すなどということは、当然ふつうのことではありませんでした。その前代未聞のスージーのチャレンジは、家族や周りの人間の協力によって成し遂げられるのです。しかしそんなとき、新たな問題が彼女を襲います。
スージーの27歳の誕生日直前、1929年10月24日(木)ウォール街における株価暴落「暗黒の木曜日」がおき、それが世界恐慌の引き金となり、あっという間に世界中の経済に大打撃を与えることになるのです。
この世界恐慌はアメリカは第一次世界大戦の戦場にならなかったため、戦争景気による過剰な貸付や投資が行われていたときの、いわゆるバブルの破綻が原因となっています。
そんな大不況の中、スージーはビルの一部屋をアトリエに、もう一部屋をオフィスにして彼女の事業をスタートさせます。
幸運なことに、スージーとともに仕事をしたいという人々が集まってくれましたので、新しい事業はスムーズに進むかのように見えました。
ところが‥‥また、ところが、です。
またもや新たな難題が彼女に降りかかってきました。それは、不景気の煽りをうけ、スージーがアトリエ兼オフィスにしていた場所を立ち退かなければならなくなったのです。それは彼女がそこにアトリエを構えてから、たった3週間後のことだったのです。
そこで作った作品には「Tunstall」のバックスタンプが入っていますが、それが入った作品はとても珍しい作品となってしまいました。
1930年3月にようやくスージーたちは新しいオフィスを構えることができました。そして再度事業を再開します。彼女たちは、絵付けをするための陶器を買う必要がありましたが、世界不況の影響がスージー達に見方をしました。なぜならば、陶器メーカーはホワイト・ウェア、つまり絵付けをするための白い素地の陶器を販売する必要があり、どの会社もホワイト・ウェアの低価格競争になっていたからです。
そして、彼女たちが以前のアトリエを立ち退いた4ヵ月後に、新しいアトリエのでの初めての作品をやっとつくることができました。度重なる苦労に立ち向かう、スージーのパワーはすごいですね。アーティストとしてだけではなく、ビジネスや生き残るための知恵を持ち合わせていたのは必須ですね。
その後も、第2次世界大戦中の1942年にアトリエが火災に合い、スージーのほとんどのデザイン画が失われ、3年後の1945年にやっと再開できるも、1957年に2度目の火事で、すべてを失うという、凡人であれば立ち直れないような経験をしますが、1972年にはその活動が認められ、エリザベス女王より大英帝国勲章を受章します。
しかしそこにたどり着くまでにも財政危機などの問題がおこり、1966年会社はウェッジウッドの傘下となり、スージーはウェッジウッド社のデザイナーとして活躍していくことになります。そしてそこでも人気デザインの、ブラック・フルーツやグレン・ミストなどの新境地を発表していくことになります。
スージー・クーパー作、ブラック・フルーツ・シリーズ
スージークーパー作、グレン・ミスト
いつも前向きに生きてきたスージーですが、1972年に最愛の夫を失くした2ヶ月後には、ウェッジウッド社も退社し、それから4年間もの間、活動を停止してしましまいました。彼女は仕事にも生きながらもプライベートな生活もとても充実していたようです。
先日紹介いたしました、上の作品クラシック・ヴィスタは、スージーが建築家であった夫とともにデザインをしたものでスージーの傑作とも言われている作品ですが、それと同時に二人の愛の結晶の作品だとも言うことができるでしょう。
1986年、スージーは一人息子のティモシーとともにマン島に移り住んでからもさまざまなデザインをつづけ、「生涯現役」を地で行ったような人生を歩みました。1995年にこの世を去るまで、彼女は現役デザイナーとして60年もの間、活動を続けたのでした。言い換えますと、生涯努力の人であったと言えると思います。
デザインがいい、作品がすばらしい、だけでは名を残せなかった、スージー・クーパーの人生は私たちに多くのことをおしえてくれるのではないでしょうか。
明日は、スージーがグレイ社時代につくったと思われる美しいカップ&ソーサーをご紹介いたします。とてもレアな作品ですので、お見逃しのないように!
今回のスーシー・クーパー・ストーリー、お楽しみいただけましたでしょうか。もしお楽しみいただけましたら、下の3つのバナーをクリック!お手数をおかけいたしますが、よろしくお願いいたします。
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クリスマス特集2009 |
先日は、スージー・クーパーのポット
をご紹介いたしましたが、今日はスージー・クーパーというその人自身について少しご紹介したいと思います。
スージーは1902年、つまりヴィクトリア時代の終わりとされる1901年の翌年に生まれました。
スージーは子供のころから、お絵かきが大好きでペンとノートさえ与えておけば何時間でもひとりで遊んでいるような子供だったようです。
父親のジョンは彼の父親、つまりスージーの祖父が経営していたベーカリーや食料品店の事業を引き継ぎ、事業はうまくいっていましたので、スージーは比較的裕福な家庭で育ちました。
父親は、お店に並べる商品のための農園も経営していたため、スージーは小さい頃から多くの植物や動物に接しながら育っていったのです。後年、スージーは一人息子のティモシーのために、これらの様子をウッドパネルに描いています。彼女にとって、これらの思い出はかけがえのないものだったようです。
しかし、人生というものはいつでも平穏であるとは限りません。地方判事や教会のサンデースクールの教師もしていた地元名士であった父親のジョンが、彼女が12歳のとき(1914年)に亡くなってしまうのです!
また、それと同時期に英国は第一次世界大戦へと突入していくのです。スージーは地元の公立校からいわゆるお嬢様学校へメイドつきで転校していたのですが、戦争による人手不足のため、父親の事業の跡を継いだ3人の兄たちによって家に呼び戻されてしまいます。そして家業の手伝いをしなければならなくなります。
それらの経験は、スージーにとっては大変ではあったものの、ビジネスを勉強するという意味合いにおいては、価値あるものだったようです。
上記のような事情があったとはいえ、スージーは7人兄弟姉妹の末っ子でしたので、比較的将来を自由に選べる立場にあったようです。その後、タイピングの学校に入学しますがこれは自分のやりたいことではないとすぐに気づき、結局はストーク・オン・トレント(英国の陶器の里と言われている街)のアート・スクール「Burslem school of art」へ入学することになります。
その後、スージーはファッションの勉強をしたかったようですが、当時はファッション・スクールというものは存在しなかったようで、そのことを知った彼女の恩師、ゴードン・フォーサイス(Gordon Forsyth)の勧めで王立芸術学院(Royal Academy of Arts)の奨学生としての入学を希望します。
しかし、その制度をうけるためには応募時にどこかで働いていることが条件だったため、恩師フォーサイスがフリーのデザイナーとして働いていた会社、グレイ社(A. E.Gray and Co., Ltd)に就職を勧めます。
1922年、スージーは恩師の勧めに従い、グレイ社に入社します。グレイ社の社長、A. Edward Grayがスージーを連れて王立芸術院を見学に行きましたが、スージーはそこで勉強することを選びませんでした。なぜ、行かないことを選んだのかは、今となってはその理由はまったくわかりません。しかしながら、そのことが、英国の20世紀を代表する女性陶器デザイナーを誕生させることになるのです。
グレイ社に入社したスージーの当初のポジションはペイントレスと呼ばれる、見習いの下絵付けにすぎませんでした。お給料も絵付けをこなした量によって支払われる歩合制でした。
しばらくそんな仕事を続けたスージーでしたが、そのポジションに満足できなくなった彼女はグレイ社長にその不満を訴えました。幸運なことに社長も自社のデザイナーの仕事ぶりに満足していなかったので、スージーは晴れてデザイナーへと昇格することができたのでした。
1923年、グレイ社はスージーの恩師であるフォーサイスと共同で、ラスター・ウェア(= ラスター彩、表面に虹色の光を発する陶器)を発表し、それらがグレイ社を代表する最高級な陶器となります。
そのプロジェクトにスージーも参加、1924年には大英帝国博覧会(British Empire Exhibition)とアール・デコの最も権威のある博覧会パリ・デコラティヴ芸術博覧会(Paris Decorative Arts Exposition)にスージーの作品が展示され、その作品がパリの博覧会で銀メダルを受賞しました。
1925年、スージーと姉のアグネスは自分たちが働いてつくった資金で、英国陶器の故郷ストーク・オン・トレントの北部バディリー・エッジにバンガローを建て、そこをアトリエをつくりました。なんとそれはスージーが23歳のときのできごとでした!
一見すべては順調に進んでいるかのように見えたのですが、誰も予想もしなかった大きな問題が、この後スージーたちにおそいかかってきます。
さぁ、スージーの運命や如何に !?
明日もスーシー・クーパー・ストーリーの続きを読みたい!とおっしゃってくださるおやさしい方は、下の3つのバナーの応援クリックをお願いいたします。
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クリスマス特集2009 |
ある秋晴れの日、私はコッツウォルズにドライブに出かけました。
そして、そのドライブの途中にあった
「ケルムスコット・マナー(Kelmscott Manor)」
(↑日本語の情報が見られます)
を昨日はご紹介いたしました。
そこまでのお話をお読みでない方は、よろしければ以下のリンクからお読みになってくださいね。
ここからは昨日の記事の続きになります。
昨日ご紹介いたしました、ケルムスコット・マナーの一時の主であり、英国のヴィクトリア時代の中に生きた、近代デザインの父と呼ばれるウィリアム・モリスという芸術家をご紹介いたします。
今回は彼が世に残した功績の大きさもさることながら、少し数奇ともいえるプライベートな生活にも焦点を当ててみたいと思います。
ウィリアム・モリスと聞いて思い浮かぶのが、まずこんなデザインだと思います。
こちらは楽天市場で扱われていた壁紙なのですが、これをデザインしたのがウイリアム・モリスなのです。モリスのデザインはコッツウォルズの自然からインスピレーションを得たものといわれています。
ウィリアム・モリスは1834年にロンドン・シティの証券仲買人の裕福な家庭に生まれました。モリスは幼少の頃より病弱であったものの、とても勤勉だったモリスは4歳になった頃には、ウォルター・スコットの長編小説を読みこなしていたと言われています。
大学に入学する前からモリスは絵画や建築にも興味を持ちはじめました。最終的にはモリスは、詩人、芸術家、家具などの製造、社会主義者として知られることになります。
モリスはオックスフォード大学のエクセター・カレッジに進学し、そこで社会評論家のジョン・ラスキンの書物にふれたことが彼の後の人生を方向付けていくことになります。
オックスフォード大学の中ではラスキンの書物以外にも彼の人生に影響を与え、また喜びや苦しみを与えた人々との出会いがあります。
モリスはオックスフォード市にある、多くの英国の首相や世界各国の政治家を輩出したオックスフォード・ユニオンという討論団体の建物の壁に、壁画としてアーサー王伝説に登場する王妃グィネヴィアを描くという仕事を仲間とともに行いました。
そこで運命的な出会いがあります。それは彼の人生を翻弄することになる女性で後にモリスの妻となる、ジェーン・バーデンと出会いでした。ジェーンは、モリスの親友で画家であったダンテ・ガブリエル・ロセッティのモデルとしてそこで働いていたのです。
当初、壁画はロセッティの婚約者のエリザベス・シダルという女性ををモデルに制作されていたのですが、制作が難航したとき、ロセッティが気分転換に、と出向いたロンドンの下町の劇場でやはり観劇に訪れていたジェーンを見つけたのです。そしてジェーンをモデルに壁画を描くことにしたのです。
ロセッティによって描かれたジェーン
美しいジェーンは、そこにいた画家たちのミューズ的存在となり、彼らをとりこにしてしまいました。モリスもそんなジェーンににたちまち心を奪われます。ジェーンは貧しい馬丁の娘だったために周りの反対を受けますが、二人はその反対を押し切って結婚します。
モリスにとっては神秘的な美しい女性が彼が芸術的インスピレーションを得るために必要であり、ジェーンにとっては経済的困難から脱却するためにモリスが必要だったのでした。
―― ここまでは、ドラマティックとはいえ、よくあるようなお話ですね。ここからがモリスの人生の大変なところです。
二人がそれぞれ必要とするものを補いあえる結婚でしたが、問題はジェーンが本当に愛していたのはモリスの親友であったダンテ・ガブリエル・ロセッティだったことでした。モリスにとってはジェーンもロセッティの両方とも必要な人物でしたので、モリスは、ジェーンとロセッティの関係をを知りながらもジェーンと結婚したのでした。
モリスとジェーンは結婚し、ロセッティはもともとの婚約者のエリザベスと結婚することになるのですが、それでもロセッティとジェーンは互いに惹かれあっていました。そしてロセッティの作品にしばしばジェーンがモデルとして登場するようになってくるのです。
繊細で病気がちなエリザベスにとってジェーンの存在は、当然のごとくエリザベスの心痛の種となります。不幸なことは重なるもので、ロセッティとエリザベスは授かった子供も死産で失うことになります。そしてエリザベスは、ある薬におぼれるようになり、結婚2年目のある日大量の薬を服用して自殺同然の死を遂げます。
エリザベスの死を悼んだロセッティによって描かれたのが、「ベアタ・ベタトリクス」になります。
「ベアタ・ベタトリクス」(テート・ブリテンで見ることができます)
ここで、モリスとロセッティの自画像をお見せいたしましょう。
モリス自画像 ロセッティ自画像
モリスは結婚後も精力的に仕事をこなしていきます。そして結婚の翌年には「アート&クラフツ運動」の鍵となるロンドン郊外の「レッド・ハウス(Red House)」に移り住みます。
「アーツ&クラフツ運動」は産業革命の結果、ヴィクトリア時代に蔓延していた安価で粗悪な商品があふれていた風潮を是正しようというもので、中世の手仕事にたちかえり、生活と芸術を統一するということを主張した運動です。
この「レッド・ハウス」は、中世のスタイルを取り入れるというモリスの意向にそって、彼の親しい友人の建築家、フィリップ・ウェッブによって設計され、壁紙からカーペット、タペストリーからステンドグラスにいたるまで、すべてモリスとその友人たちの手によって仕上げられ、「世界で最も美しい家」といわれています。
レッドハウスとは、その時代では当たり前であった漆喰の外壁仕上げをせず、建築材である赤レンガをそのままむき出しの外壁としていることから名づけられました。
モリスにとっては思い入れのある家「レッド・ハウス」だったに違いないのですが、諸事情が重なりここに住んだのはたった5年間となってしまいました。
諸事情というのは、「レッド・ハウス」では多くの友人たちと家を共有していたモリスですが、そのことが家を出なければならなくなった原因のひとつとなりました。最終的には喧騒からのがれてコッツウォルズのケルムスコット・マナーに住まうことになるのです。
夏のケルムスコット・マナー
このケルムスコット・マナーに越してきたもうひとつの理由は、ジェーンとロセッティの親密な関係を世間から隠すためだということです。この邸宅での「地上の楽園」的な生活は、奇妙な三角関係のなか始まったのです。「地上の楽園」はモリスの叙事詩ですね。
妻のジェーンに対していろんなご意見がおありになるかと思いますが、ジェーンはただの美しい女性ではありませんでした。彼女は刺繍家としてモリスのデザインする、カーテンやタペストリーにそれは美しい刺繍を施し、作品を芸術の域にまで高めるという大きい手助けをしていたのです。
ですので、このケルムスコット・マナーでの生活は、三人の共同生活のうえ、三人各自のおびただしい芸術活動が展開されるという、ふつうでは想像もできない生活をおくっていたようです。
その間も、ロセッティは妻への罪悪感にさいなまれ次第に心身を病み自殺を図ったこともありました。そして最終的にはジェーンとは別れ、晩年は世間的な成功は得たものの、お酒と薬におぼれる生活で不眠症になっていたようです。そして54歳という短い生涯を終えるのです。
その頃からモリスは、プロレタリアートを解放して、生活を芸術化するために、根本的に社会を変えることが不可欠だと考え、マルクス主義を熱烈に信奉し、カール・マルクスの娘らと行動をともにし、社会主義協会まで結成します。そして62歳で彼の生涯を終えます。
一方モリスの妻、ジェーンはロセッティだけにとどまらずモリスとの結婚生活の間も何人かの愛人がいたようで、最終的に75歳まで生きました。
果たしてだれが人生の勝利者かということは差し置き、この三人だけを取り上げても様々な人生、そして各人の心模様が見え隠れしますね。
3秒だけお時間をください!
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ウィリアム・モリスの壁紙をはれば、そこは英国の中世のようなお部屋になりますね。 |
昨日のお約束どおり、今日は英国内でもなにかにつけ話題になっているおちゃめな方を紹介したいと思います。
この方をご存知でしょうか?
この方の名は、リチャード・ブランソンさんといいます。
本名はサー・リチャード・チャールズ・ニコラス・ブランソン(Sir Richard Charles Nicholas Branson)というのですが、この名前の最初についている「サー(Sir)」というのは称号で、2000年にエリザベス女王から「ナイト」の称号を授かって以来、ミスター(Mr.)の代わりに「サー」をつけることが許されているのです。
この方のお仕事はあの「ヴァージンアトランティック航空」をはじめとする、ヴァージン・グループの創始者で今は会長を務められています。
昨日の最後の部分でお話しましたように、この方は大規模なチャリティも行っています。
その団体の名は「ヴァージン・ユナイト」
といい企業や個人から寄付金を集めて、ナイジェリアでのエイズ、マラリア、結核などによる死亡率を下げる活動や、アジア諸国の津波、ありえ以下のハリケーンなどの被災者救済支援の活動を行っています。
そしてこの団体のすばらしいところで、昨日のブログで述べました派手なオークションをして寄付金を集めるという行為だけでなく、実際に現地での活動を行っているところです。
私がいつも思う疑問 ―― お金をいくら集めても人の手を通じて、または発展途上国の政府などを通っていくうちに、何割が末端まで届いているのか、ということにこの団体はある種答えてくれています。
この「ヴァージン・ユナイト」
はアフリカではヘルスワーカーがオートバイで遠隔地の村々を回って、住民たちの健康状態のチェック、薬品の投与などを行なっています。
そして、ヴァージン・グループの持てる人、ネットワークを駆使して大きな成果を発揮しているということです。
またこの「ヴァージン・ユナイト」
では若者のエイズ啓発キャンペーン、ホームレスや貧困な環境にある若者に対するボランティア活動も行っています。
「ヴァージン・ユナイト」
ではの活動報告はこちら(日本語)
です。そしてもし寄付にご興味のある方は、こちら(日本語)
からどうぞ。
さて、リチャード・ブランソンさんのお話に戻ります。
この人はいつも色んなことで話題をふりまいていますが、これは今に始まったことではありません。
彼は、1950年生まれで父親が法廷弁護士という恵まれた中流家庭に生まれ、ストウ・スクールというパブリック・スクールに進学するも、学習障害をもっていたことと関係するのか、勉強にはほとんど興味がなく、スポーツに少しだけ関心を示すような学生でした。
しかしリチャード青年には確固とした自信や信念があったようで、3回も数学の試験に落第していながらこのように断言したそうです。
「僕なら校長先生よりもこの学校をうまく運営してみせる!」
まあ、そんなことをいう子供はたくさんいるのでしょうが、この青年の普通ではないところはここからです。
校長先生にメモにした校則の改定案をを示しながらこんなことを提言したそうです。
「6年生(18歳)には1日あたり2パイント(1.1リットル)までのビールを許可すること」
英国の法律では18歳以上がお酒を飲めることにはなっていますが、パブリック・スクールの校長先生にそれを提案するのはやはり尋常ではありません。
しかしもし校則がそのように改定されたとしてもその恩恵を受けることはありませんでした。
なぜならば彼は16歳でその学校を中退してしまったのです。
当時の校長先生は彼のことを大金持ちになるか、刑務所に入るかのどちらかだろうと話したそうです。少なくともいいほうの予言があたってよかったですよね。もっとも21歳のときに税金の不払いでちょっとしたトラブルはあったようですが。
その税金のトラブルを起こすことになったのは、彼が20歳のときに立ち上げた現在のヴァージン・グループの原型となる、ヴァージン・レコードという会社になります。
そもそも彼が取り組んだ最初の事業は若干16歳で創刊した「ステューデント」という雑誌でした。実は彼はこの前に、セキセイインコの飼育とクリスマスツリーの育成、ふたつの事業に失敗しています。しかしながらこの雑誌もあまりうまく立ち行かなかったようです。
彼の企業家としての道のりを書いたこんなマンガがありました。
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ポピュラー音楽の知識が乏しかったにも関わらず、新たに取り組んだのが、レコードのメールオーダーの会社でした。そして、自分宛に届けられる代金支払いの小切手(英国では個人でも支払いに小切手をよく利用します)が自宅の郵便受けにあふれるのを見て、事業に成功したことを実感したそうです。
ブランソン氏のヴァージン・レコード店出店の理由は「郵便局のストライキがメールオーダー事業をぶち壊してくれたため」というコメントがあります。
確かに英国では時折郵便局がストライキを起こすことがありますので、一見もっともらしい理由に思われますが、私は、これはブランソン流の機転のきいたコメントではないかと思っています。
このころに上述しました脱税の問題がありました。税の抜け道を見つけようとして税金の問題が発生しましたが、彼のお母さまが家を抵当に入れてその支払いを助けてくれたようです!
その後も前向きに事業に打ち込む彼は、当時の有名アーティストとの契約を増やし、事業を拡大し続け1984年にはヴァージン・アトランティック航空を設立するにいたります。
そしてその勢いはとどまるところを知らず、ヴァージン・トレインズ(鉄道)、ヴァージン・インターネット、ヴァージン・コーラ、ヴァージンブライドなどなど多くのヴァージン・ブランドを生み出しすことになるのです。
ヴァージン・グループではカリスマ的な顔を持つ、このリチャード・ブランソン氏が広告塔となっています。
1991年には「パシフィック・フライヤー号」という熱気球で、熱気球メーカー社長パー・リンドストランド氏をパイロットに世界ではじめて太平洋横断に成功しました。
富士山上空も飛行しました。
そして次の4つの世界記録も打ち立てました。
① 飛行した最大の熱気球(直径52m、高さ68m)、
② 最長飛行記録(10,878km)、
③ 最長連続飛行時間(46時間6分)、
④ 速度記録(時速385km)
彼にとってはビジネスも人生も冒険といった感じなのでしょうか。大企業の代表でありながらもいつも冒険することをやめません。
私も日本に会社を持っておりましていろんな経営者の方とお話しする機会があるのですが、ある大企業の社長さんは「経営者たるもの、車の運転などをするべからず」とおっしゃっていらっしゃいました。
なぜならば社員、株主、取引先などに責任があり、経営者はその責任に応えるため、車の運転などを始め危険なことをしてリスクをおかすべきではない、というご意見で「なるほどな~」とお話をお伺いしたものですが、まぁ、私はお抱え運転手を雇えるほどの会社社長ではありませんでしたので、毎日自分で運転をしてあちらこちら走り回っておりました。^^
しかし、このリチャード・ブロンソン氏にかかっては、どんな枠組みも当てはまらないようです。彼ならば
「気球だったらいいでしょ!?」
とウインクして見せるでしょう。
彼はどんな逆境の中でも常に、
「ものごとを前向きにとらえ」
「仲間や家族のことを思い」
そして
「既存の考えにとらわれない自由な発想で挑む」
とのことで、逆境ですら最高のチャンスに変えてきたそうです。そして数々の成功はその結果として彼の歩いてきた道の後ろに生まれたものなのですね。
そんな彼によってかかれた自伝が以下の本です。
リチャード・ブランソンさん自身によってきれいごとだけではない、失敗や上の脱税の話なども織り交ぜられたオープンに書かれた自伝です。
- ヴァージン―僕は世界を変えていく/リチャード ブランソン
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2004年に彼は宇宙旅行を企画する「ヴァージン・ギャランティック社」も立ち上げましたので、皆さんが宇宙旅行できる日も近いかも。
先月7月17日から、結局は一週間にわたって書いてまいりまいました、「バーンズリー・ハウスを征く
」シリーズですが、その中で、この邸宅のオーナーであった、ローズマリー・ヴェレイ夫人について少しふれたんですが、今日は英国の上流階級のご婦人方のライフ・スタイルについて書いてみたいと思いました。
上記ローズマリーさんは、バーンズリー・ハウスのオーナー一族であったデイヴィッド・ヴェレイ氏と結婚されてからヴェレイ夫人となられるのですが、4人のお子さんを育て上げた後、40歳くらいからプロフェッショナルなガーデナーとして輝かしい経歴を作られることとなるんですね。
この情報は、いつもこちらを訪れて下さっているMeguさん
が、そのローズマリーさんについて3月のブログ
で書かれているので、こちらを参考にさせていただきました。Meguさん
のブログには生前のローズマリーさんとそのご家族の貴重なお写真も掲載されていますので、ぜひご覧になってくださいね。
ローズマリーさんは子育てをほぼ終えられた40歳という年齢から、第二の人生をスタートさせて未亡人となられた後もよりキャリア・アップをしていくのです。
そして顧客にプリンス・オブ・ウェールズ(チャールズ皇太子)や歌手のエルトン・ジョンをはじめ、アメリカのニューヨーク・ボタニカル・ガーデンからデザインを依頼されるなど確実にキャリアを積み重ねていきます。
すごいと思いませんか?
それもローズマリーさんはいわゆる英国の上流階級に属する方ですので、生活に窮した挙句キャリアの道を選んだわけではないんですね。
英国の上流階級の奥さまというのは、「奥」さまではおさまらないんですね。
実は私の周りにも、マナー・ハウスにお住まいの、いわゆる上流階級の奥さまがいらっしゃるのですが、そういった方がいらっしゃるのですが、ほとんど皆さん何らかプロフェッショナルなポジションを築いていらっしゃるのには感心します。
私も日本にいる頃や、こちらに来て間もない頃、まだそういった方々とお付き合いのない頃は、上流階級の人たちは、毎日着飾り、おいしいものを食べ、コンサートに行き、たわいのない会話を楽しんでいる、というような失礼な想像をしていましたが、現実はそうではないようです。
この国では階級に関係なく、ただきれいに着飾ってアフタヌーン・ティを楽しんでるだけでは、尊敬されないようで、それは社交界でも同じことが言えるようです。
それだけではなく、皆さん年齢にも負けないパワーを感じます。
40歳の声を聞くと
「もう年だから‥‥」
「私の若い頃は‥‥」
なんて言ってしまいがちですよね。
でも、それを口にしないところが、この国の上流階級の人たちなんです。
当然、自分の年のことは意識されているに違いないのですが、それを口にした段階でその言葉に甘んじてしまうので、あえてそういったネガティヴなことを口にしないんです。言い意味でのプライドをお持ちで、そういったところは、私自身も共感できます。
外から見れば気楽に見えるかもしれない上流社会、でもその中で生きるためには、それ相応のパワーが必要なんですね。
その中で、いつも気を張って生活していらっしゃる方々なので、外の世界に出ても持ち合わせたパワーが出てしまうようで、この国のそういった社会にいらっしゃる方々は他の方面でも第一線で活躍されていることが多いように見受けられます。
今回のバーンズリー・ハウス・シリーズ
を通じまして、ヴェレイ夫人のことをよく知ることになり、彼女のような人生がすごせたら素晴らしいと感じましたので、日本の皆さまにも少しでもローズマリー・ヴェレイ夫人のことを知っていただけたらうれしく思います。
もし、今回のバーンズリー・ハウス・シリーズ
がお気に召しまししたら、この本もきっと気に入っていただけると思います。リンクを張りながら何なんですが、よろしければ一度書店で手にされて、立ち読みでもいいので見てください。きっと英国貴族の生活を感じられますよ。
- 図説 英国貴族の城館―カントリー・ハウスのすべて (ふくろうの本)/田中 亮三
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